前回は非難ごうごうだったので・・・
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前回に引き続き、写真があったのシリーズ?です。
高校三年生の時の秋だったろうかと思います。この僕の住んでいるど田舎の丹波篠山に、なんと【はしだのりひことシューベルツ】が来たのです!
労音っていうのかな?最近あんまり聞きませんがね、そのお陰でこの町で人気絶頂(笑)時代のシューベルツのコンサートがあったのです。
もちろん、フォーク仲間と張り切って行きましたよ。場所は僕の通う高校の講堂。開門前から並んでね、開門と同時に猛ダッシュして一番前の席に!
おんぼろ高校の講堂ですから、椅子だって木の長椅子ですよ、ステージだって音響も暖房もない、床のめくれかかった無様な会場ですよ。歌うはあの天下のシューベルツですよ(笑)でも、あの日は最高の感動でしたよ。
目の前だから手に取るようにギターのコードが判る。皆でメモ取りながら見たのは忘れられないですね。僕は質問もしたし(笑)
内容は完璧には思い出せないものの、『風』・『白い鳥に乗って』・『さすらい人の子守唄』あたりだったかと。杉田二郎さんが笑いながら「あんちゃんの歌を歌います」と言って、アンチェイントメロディーをソロで歌ったのが最高に良かったです。
演奏しているところの写真は僕が撮ったもの、楽屋(楽屋とはいっても講堂の横にある、茶道部が使ったり、クラブの合宿で使ったりする和室の会館)での写真等は写真部のI君が特別許可をもらって撮ったものです。
ちなみにシューベルツとは、よくシューベルト?と思いがちなのですが、実は『靴の紐』という意味だそうですよ。
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現在、我が家の東隣にある呉服町町内会の公民館が改修中なんです。
改修とはいっても、新築できるほどのお金もなくて、瓦の全面葺き替えと、ちょっと建物が相当古いもので(江戸時代の末期のもの)傾きが激しくて、耐震の補強だけでもといったことぐらいしかできないのですがね。それでも少なくとも700万円位近くはかかるとのことですが。町内会の皆さんからご寄付を募り、町内会のちょっとした蓄えと、後は市からの補助で何とか支払いはできそうな見通しではあります。
ということで、秋の祭の終わった後に、町内会の皆で公民館の片付けをしました。中にあるものを全て運び出して、蔵の中にしまいこんでね。机に黒板に座布団に扇風機やストーブやカラオケや鍋や鉄板や表彰状や写真やと・・・・等など・・・・
中でも懐かしかったのは、僕の実弟のボーリング大会での優勝トロフィーです。もう40年近く前のものなのでしょうが、ちゃんと残してありましたよ。大事に新聞紙に包んでしまっておきました。
写真を撮って弟に送ってやりました。ちょっと驚いてましたけどね(笑)
で、40年前ということで、ふと思い出したことがありました。『そうだ、ここの公民館の庭で友達と写真を撮ったことがある!』と・・・・・
無性にその写真のことが気になって、家に帰って早速、昔のアルバムを開いてみたのです・・・・・が、・・・・ない。その写真がないのです。
アルバムにはちゃんとS41・10・2公民館で。と日付まで書いてあって、しかも皆で並んで撮った写真の立ち位置の順に名前まで記入してあるのに、肝心の写真だけが剥れてなくなっていたのです。他のアルバムに紛れ込んでいるのかも知れないと思い探してみたものの、見つからずで。
今は亡きK君が、一度みんなで集まってパーティーでもしょうやって企画をしてくれて、ちゃんと公民館をとってくれてね。みんなで、トランプだとかゲームだとかを持ち寄って、歌も歌ったり、お菓子を食べたりと、それはそれは楽しいパーティーだったのです。言うなれば人生初の合コンみたいな(笑)
この時の男子5人女子6人の中に、実は僕が大好きだった人もいてね。彼女とじかにゆっくり話ができたのも、この時が最初だったかと。
えっ?osamuchanの初恋ですって?笑・・・・・いえいえ僕はおませでしたからね、初恋は小学校の一年くらいの時の、隣にいた鈴○恵子ちゃん、で、その次がまた隣の寺○アッコちゃんで・・・・・アンテナの狭いこと(笑)
まあ、それはさておき、毎日、中学校で朝、彼女と顔を合わせては『おはよう』って、帰る時には『さよなら』ってね。クラスが一緒になったことはなかったので、すれ違う時にちょこっと挨拶する程度で・・・・・
でも、それがあの頃の僕にとっては最重要な日課でね。一日でも目が合わないと淋しかったりね。何かそういった胸がキュンとするような事があってこそ、毎日がクラブに勉強に頑張れたっていうかね。まっ、勉強はあんまりしませんでしたけど(笑)彼女から年賀状なんて来ようものなら、もう至福の極みでしたよ。
あの時のK君のリードに改めて感謝です。そして、僕はおバカだから高校の時くらいには、段々と彼女とは疎遠になっていってしまったのですが、あの頃の僕を支えてくれた彼女にも改めて感謝です。今でも、同窓会や街中で顔を合わせたりすると、あの頃のように胸がドキドキしてしまうんですよ。
と、そんなことを思い出してはにこにこしてしまう今日この頃のosamuchanなのでした。でも、あの写真一体何処にいったんだろ?
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暑いじゃないですか。まだまだ序の口なんでしょうが、年々我慢の限界点が下がってきているんでしょうね、バテるのも早いです。
子供の頃は夏休みというと必ず、隣町の春日町というところの父の里に、長期滞在させてもらっておりました。着替えはもちろん勉強道具も全部持ち込んで、2週間も3週間も居座っていました。他のいとこ達も皆揃って、それはそれは楽しい夏休みだったですよ。
まさに吉田拓郎の『夏休み』の世界でした。麦わら帽子、田んぼのカエル、ひまわり、夕立、セミの声でしたね・・・・・
でも夏休みというのは、必ずやらねばならない宿題があって、日記だとか、写生だとか、読書感想文だとか、自由研究だとか・・・・・おまけに、ラジオ体操に水泳・・・・それが苦痛でしたね。思いっ切り遊びたいことが一杯あって、そして山ほどしなくてはならない宿題もあって。あれもしたい、これもしたい、でもあれをしなければ、これもしなければ・・・・・・の夏でした。
中学になっても高校になっても大学生になっても、その子供の時の『・・・・・しなければ』のイメージが強く残っていたんでしょうかね、夏になると『何かしなければ』というようなプレッシャーにも似た想いのようなものがありまして、ただじゃ終わらせてはなるまい!みたいな『夏のプレッシャー』とでも言うのでしょうかね、自分の中から湧き出るようなものではなくて、まるで外圧のようなものの存在が、いつもあったような気がしてなりません。
結婚して子供ができても、この時期になると『何かしなければ』みたいな意識がありまして、必ず夏休みの間には家族旅行なんかもやってきました。これも外圧?(笑)
えっ!?今年の夏の予定ですか?(笑)Σ(・ε・;)
いやあ、もう子供達も大人になってますし、おっさんが海で泳ぐのも危険ですし、第一暑いだけだし・・・・・まあ無事に、この暑さを乗り切るということに専念したく・・・・(笑)
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出てきました。
喫茶『じあるだん』のメニューです!
フランス語で『庭』ってことらしい。
僕が大学2年時、昭和47年の春から約2年間バイト先としてお世話になった、そのじあるだんのメニューが出てきました。ちょっと探してたんですが、なかなか見つからなくてね。本棚に入っていたのですがね。
まあ、バイトとしては長いこと勤務したというのもあって、辞める時にお願いして了解の上、このメニューを頂戴したのです。
京都は河原町今出川交差点を西に入ったところにあったのですが、同志社や立命館の広小路学舎も近く、まあ言うなれば【学生街の喫茶店】という訳です。満席になれば200名近くも入れる大きな店でした。地下がスナック、一階が喫茶、二階が中華、三階が麻雀、四階より上が社長宅といったビルだったのですが、今はどうなんでしょうかね、健在であれば嬉しいのですが。
ここでは、社長や、喫茶のチーフである息子さん、そしてちょっと怖い支配人等、ほんとにバイトを越えたようなお付き合いをプライベートでもしてもらったものです。長いこと在籍していたものですから、終いにはウエイター主任みたいな立場に(笑)
メニューにもあるように朝10時から夜中の2時までの通しでの勤務も何回かこなしたものです。
そして色んな人達とも知り合いました。中でも特にやっぱり、先日亡くなった長崎の浦川君。ほんと今でも、彼と過ごした楽しかった時間の記憶が、このメニュー一つ見るだけで甦ってくるのです。
メニューを開くと、当時の京都の物価のようなものも分って興味深く、面白い気がしますね。
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先日6月2日に書いておりました『クマ』です(笑)リクエストがありましたのでUPしますね。
まずはosamuchan何歳か不明のおっさん顔してる写真に写っております。
おふくろの話によると片時も離さず、寝るときも一緒にというくらい大事に?しておったそうです。
特に意識してしまっておいたという訳ではないのですが、以来ずっと僕の部屋に鎮座しております。
やはり相当な年代物ですので、かなり色も褪せてはきていますが、昔はもっと濃い茶色だったと記憶しております。
今風な人形と並べて置いてみると、さすがに歴史を感じますが・・・・可愛げも比べもんにならんですが・・・・
しかし、これからもずっと僕のそばにいてくれることでしょう。はい。
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わかめさんの先日のリクエストによりまして、いかにも身内のネタなのですがN君のお話などを少々・・・・。
多分、笑って読めるのは、わかめさんとK平さんくらいでしょうけどもね!
僕の同郷の友人で、同じ大学に進学してきたN君。普段はお兄さんと二人で借りている大阪のアパートから通学していたのですが、絶対遅刻してはならない必須科目が一時限にあるような日の前日は必ずといっていいほど、僕の下宿に泊まりに来ていました。
そんな訳で、同じ下宿のわかめさんも、彼と接する機会も多かったようです。
N君自体は、ほんとにとてもいい人で(笑)勉強家でもあり、経済観念にもすぐれ(笑)割れた眼鏡を3年間も使い続けるような人でした(笑)
ある日、彼と一緒に近くの銭湯に行った時の事、二人並んで体を洗っていると、彼が言うのです『なあ・・・、このカミソリまだ使えるやろか?』・・・・見ると丁度二人の足元の排水口の所に使い捨てのカミソリが落ちている・・・・「アホか、そんな誰が使うたかわからんようなババチイもん触るなっ」と、僕は答えて頭を洗い始めたのですが・・・・突然「わっ!」と言う彼の悲鳴にも似た声がするので、慌てて見てみると、なんと彼はそのカミソリで髭を剃っていたようで、そこには顔中血だらけのN君が・・・・・で、すました顔をして曰く『やっぱり捨ててあるだけのことはあるわ』
そんな彼が、京都の上桂に下宿するようになったと言う話があって、しかも格安の2500円。当時は畳一枚千円が相場の時代に、六畳で2500円の下宿があったと言うのです。それを聞いた僕は、早速暇に任せて、彼の下宿を拝見に行ったのでした。
阪急電車の駅を降り、歩く事およそ10分、だんだんと田舎の景色に向かいます。今でこそ賑やかな場所となってはいるものの、当時は田んぼばっかりだったような・・・・・「おいっ、ほんまこんなとこに下宿なんてあるんかいな?」と言うと『まあそない言わんと付いて来いや』と言いながら一軒の農家に着く。『ここや』と彼が指差すその先は、大家さんの家らしき建物の横にぽつんとある納屋のような・・・・・。
彼に付いてその納屋に入ると、得も言えんような屁くさいような香りが・・・・・
なんとそこは納屋ならぬ牛小屋!
『あれがわしの部屋や』と彼は二階らしき所を指差して言うのです。
「お前、これ牛小屋やんか」『ちゃう、もう牛はおらんって言うてはった』「おらんって言うても、昨日まで牛がおったんちゃうか」『そうかも知れん』「まだ、藁が敷いてあるし・・・・」『このハシゴ登らなあかんねん』「これほんまのハシゴやんか」『気ぃつけて登れよ』・・・・・
「しかし屁くさい部屋やなあ」『一時間ほどしたら慣れるわ』「そんな問題ちゃうやろっ」・・・・・「しかし大家も考えたなあ、牛からは家賃取れんしね」『わしは牛よりかはマシちゅうことやな』笑・・・・・「しかし、底が抜けそうな部屋やなあ・・・・・まあ抜けても下は藁やから命には別状ないやろけどな」
大便は大家さんの家のを借りる、小ならその辺の田んぼでできる(笑)その部屋で匂いに慣れるという一時間ばかりを過ごしたが、相変わらずくさかった。
部屋を出てハシゴを降りて、上で見送るN君に「ハシゴ外しといたろかぁ」と言うと、必死の体で『あかんっ!それだけはやめてくれ』と言う彼でした。
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わかめさんから写真が届きました!
なんでも、昨日、徳島から2時間かけて京都の相国寺まで行ってこられたそうで(2時間だったら早いですよね!)江戸時代中期の画家、伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)の絵で、宮内庁から120年ぶりに里帰りしたという『動植綵絵(どうしょくさいえ)』を鑑賞してこられたとの事。相変わらずグルメでマニアックなわかめさんではありますが(笑)その帰りに、相国寺に程近い小山板倉町へ・・・・・。
そうです!そこには僕とわかめさんが大学時代の四年間を過ごした下宿があるんです。
いやあ、写真を見て感動しましたよ。なんと僕らの時代でさえ古臭いと感じていたあの家が、まだ現存していて、なおかつまだ現役の下宿屋なんです!
僕の部屋は白壁が落ちかかっている二階。窓枠がサッシに付け替えてあるのですが、それ以外はそのままのようです。そしてその向かって右側がわかめさんの部屋だった所。
ほんと、感慨無量とはこのことです。わかめさんに感謝します。
それにしても、わかめさんの部屋ですけど、今改めて見ても狭いですね(笑)確か三畳半でしたもんね。
僕は僕で、当時は窓のところに腰掛できる部分があって、よくそこに座ってギターを弾いたものです。向かって左側に住んでおられた斉藤さん(大家さんの実弟さん)に、よく『煩い~~っ』って怒鳴られたもんです(笑)
当時は左奥に停めてある白い自転車の後輪のところが出入り口でしたが、今は大家さんの作業所(糸屋さん)が取り払われて、ちゃんとした玄関ができています。
この一軒家を、もう一人の住人であるH君との三人で借り切っていたんですね。いやあほんと懐かしい限りです。
わかめさんの話によると、わかめさんの部屋だったところは、京大生のイケメンのイギリス人が寝室に使っていて、僕の部屋はリビングになっているんだそうですが、ニュージーランド人の美女もいたということです(笑)
わかめさん、今度、また京都に向かわれる時は、一応こちらにもお誘いをかけてね(笑)
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『うわっ!写真貼っとってや!』と嫁に冷笑されておりますが、当時、別にお互いなんて事はなかったのですが、結果、紆余屈折?を経て3年後に一緒になった訳なんです。一応、想い出写真集ってことで・・・・。(真ん中の人です)
でも、こんなシーンにも松本が居合わせてたんですね。と、いうよりも彼にその日誘われなかったら、こんな出逢い?はなかったかと。しかも、何台もあったレンタサイクルの中で、よりによって嫁の自転車に僕がまたがっていたとは・・・・笑
よく『赤い糸で繋がってる』って言いますが、これは別に男女間だけの事ではなくて、男と男、女と女の間にも、これはそういうものが存在するんだ。そう今更ながらに実感するものです。
その時、彼の計らい?で、次は今から何処を観光に行くのかって話になって、苔寺(西芳寺)ってことが分って、松本と僕で女性達を4,5人苔寺まで運んだのです・・・・。『苔寺はここから遠いから、もう、自転車なんて返して来なさいっ』みたいなノリでした。東京から来た人や、東北の人やら山口やらと、話は弾みましたよ。
松本との想い出話を書こうとすれば、避けては通れない、こんな話があると言う訳です。
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松本とは、ほんとあちこち出かけました。『茶いこか』と言うのが出会うたびの口癖みたいなもので(笑)洒落た店を見つけては二人で入ったものです。『ちょっと付いて来いや』って言われて、付いて行ったら、岐阜の養老の滝だったり、奈良の法隆寺だったり(笑)という日もありました。
前回にも書いたように、無論、ケータイのない時代ですから、一旦走り始めたら、後を追いかけるのが精一杯で、行き先なんか分ろう筈もなく。
写真はあまり鮮明ではありませんが、法隆寺に出かけた時のものです。
よくカメラ持ってたなあって、今更ながらに貴重な一枚です。
ある日の夜です。
もう寝ようかなあと、パジャマに着替えてた時でしたから、多分夜も10時にはなっていたと思います。下宿の窓の下から『おるけぇ~』って声がしたので、覗いてみたら彼でした。
『おいっ、ちょっと付き合えや、車で待ってるわ』と言うので慌ててまた服に着替えて、表で待つ彼の車に乗り込みました。すると、何も言わずに車を走らせるものだから「どないやねん?」と聞くと『まあ、ええがいや』って・・・・・またしばらくして「何やねんな?何処行くねん?」と聞いても『まあなっ』って言う返事以外は何も話さず、彼は車を走らせるのでした。
二人黙ったまま、車は北を目指し・・・・・「大原行くんかいな?」と言うと『まあ何処でもええんやけどな』って言うから「まあ、ええわ、何処なといきいな」みたいな・・・・。
真っ暗な、人けのない大原について、車を停めてちょっと一服しながら「何か具合の悪いことでもあったんか?」と聞くと『まあ、そら何やかんやあるわいな』と言いながら大きくため息をついて、ニコッと笑うのでした。
しばらく、何も話さず、時間が過ぎて『おっ、ほな帰ろか』って。また、何も言わずに車を走らせて、下宿まで帰って来ると『遅うに悪かったなあ、ちょっとスッとしたわ、ほなまた明日なっ』って・・・・・。
人を笑わせるボヤキみたいなものはよく言う彼だったけど、決して弱音は吐かない彼でした。人を元気付けたり、励ましたりすることはあっても、人から励まされるのは性に合わないというか、ちょっとシャイなところもある彼でした。そして多分、淋しがりやなところもあったように僕は思うのです。
そんな訳で、僕は松本の誘いは、よほどの用事がない限り、断ったことはありませんでした。
そんなある日、4回生時の10月のこと、校舎で一緒になって、彼が『この頃、N君見んなあ・・・、お前知らんか?』と聞くので「そう言うたらそうやな、どないしてるんやろ」と答えると『今からあいつのアパート行ってみやんか?』と言うので、二人で出かけることになったのです。
N君のアパートは嵯峨野の大覚寺の奥にある、直指庵の近くにあって、松本はアパートの下に車を停めると『ちょっと見て来るわ』とアパートの階段を上がって行ったものの、すぐに降りてきて『あかんわ。鍵かかってるわ』と言いながら『あっ、せやっ、ここのお店はアパートの大家さんがやってはるんやった』と言いながら、一軒の竹細工屋の店に入って行きました。その店は当時女性週刊誌にも載ったりするくらいの人気店で、僕もちょっと覗いてみようと、彼について店に入ったのです。
大家さんの話によるとN君は家の事情で2ヶ月ばかり実家に帰ると言っていたらしく『もうそろそろ帰ってきはる頃やろ』ということだったのだが、そんな話をしていると、そこへ大勢のお客さんが入って来たのだった。
大家さんは僕らに『若い女の人ばっかりやから、あんた達も手伝って』って笑いながら言うのでした。
質問されては「おばちゃん、このお箸いくら?」とか「この籠は?」とか、松本も『おばちゃんこれお買い上げっ』って、結構僕らも役に立って。
最初は新鮮で面白かったけども、10分もするとちょっと飽きてきて「松本っ、俺、外で一服してくるわ」と、僕は店を出て、椅子代わりに、表に停めてあった何台かのうちの一台のレンタサイクルにまたがってタバコを吸っていたのだった。
そして、その自転車をこぎながらそのあたりをウロウロと遊んでいると、僕の後ろから『私の自転車返して下さい』という女性の声が・・・・・・
彼女と初めて出会った瞬間でした。
写真は僕と出会う直前のその人です。
【続く】
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一応、カテゴリ分けとしては【想い出写真集】ってことで(笑)
なんせ、4年間大学に通って、ただの一度もコンピュータなんて触ったことも、見たこともない時代の話ですからね。今じゃ必須ですがね。
当時、京都産大にはコンピュータなるものが二台設置されている・・・・と、耳にした事はあるんですがね。当時のおバカな僕のレベルで言うと「そんなもん、一体何に使うんや?」みたいなね。『めちゃややこしい計算もスパッとできるらしいで』「電卓のめちゃ賢いやつやな」『一回記憶させたら絶対に忘れんらしい』「いちいち教えてやらんとあかん訳やな」・・・・・・みたいな会話を友人としたような。でも、『何年かしたら一家に一台の時代が来るらしいで』と言う友人の話には「そんなもん、要らんやろ!日本国中で一体何を計算すんねん」てな結論で。
でも、『産大の駐車場には、TOYOTA2000GTが3台停まってるで』と言う話にはすぐに飛びついて、のこのこと産大の駐車場まで見に行った記憶があります(笑)
そんな時代だから、勿論、ケータイ電話なんてものが必需品?になろうとは想像もつかないですよね。あの時代にケータイがあったら・・・・・って話もよく出てくるのですが、もしあったら、もっともっと沢山の景色だとか友人の写真が一杯残ってるんでしょうね。
でも、振り返ってみると、学生時代に松本やK平と電話で話をしたような記憶が全くないのです。やっぱりアポとる前に訪ねてみるっていうのが当時のスタイルだったんでしょうね。まあ、そうせざるを得ない訳なのですがね(笑)
大学も3回生になるとゼミが始まり、お気に入りのクラスもバラバラになってしまいます。なんせ2万?位も学生のいるマンモス校でしたから(笑)同郷の先輩でさえ4年間で一回しか出会わなかったのです。(僕があんまり学校行ってなかったという説もありますが・・・)
そんな訳で、なかなか友人達と出くわす機会も減ってきます。それでも分りやすいのは、衣笠学舎の以学館に行けば、そこは経済・経営学部の専用校舎?でしたから、地下の食堂あたりで待ち伏せしていると誰かには出会えたものです。
その地下には大食堂と、洋食風のグリルとがあって、松本はよくグリルの方で食事をしていました。K平さんは大食堂(笑)
当時30円でラーメンが食べられました。50円出せば、一番安い定食が食べられましたよ。定食とは言っても、高野豆腐のフライにキャベツを機械で切ったようなみじん切りが皿に乗っていて、あとは具の殆ど入ってない味噌汁に御飯。
僕は授業には出なくても、飯だけは学校に食いに行ったりしてましたから、ちょっと松本に用事のある時は、グリルの前で待っていたということもありました。ちょっと待ちきれなくて先にグリルに入って150円もするチキンカツランチなんかを食べていると『おっ!お前何かええことあったんか?』なんて言いながら松本が入って来て僕をちゃかすんです(笑)
もしもあの時にケータイというものがあったら・・・・・とは思うものの、いや、なかったからこそ、みんな良く足を運んだんだって、会話は口でするもんだって・・・・。
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こうしてブログを書いていると、未だにこの画面の向こう側に松本がいるような、そして、このブログを見てくれているような、そんな気がしてなりません。
出会った時に、よく僕が、昔のつまらない想い出話をすると、大きく相槌をうって腹を抱えて笑ってくれました。ブログの記事も『読んでるで』って、電話をかけてきてくれたりもしました。
こうして、続々と想い出話を書き連ねていると、きっと、あいつも読んでくれているのだろう。そして、大笑いしてるんだろうなって、ふと思ってしまいます。
この懐かしい想い出話を共有してくれる、大事な友がいなくなってしまったという事が、現実であることに違いはないのだけれど、僕はもう少し、一緒に夢の中にいたい。そんな気持ちでいます。
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松本には、よく授業で代返頼まれましたよ(笑)
『ちょっと行かんなんとこあんねん、代返頼むわなっ!』って。「行かんなんって、ここにおらなあかんやん(笑)」みたいな。そしたら彼について行くっていう奴の分まで代返頼まれて・・・・。
『○○君』「ハイッ!」・・・『○△君』「は~い」・・・『松本君』「はいはい!」・・・ってね。自分の名前呼ばれて返事し忘れて「ここにおりますからっ」ってな時もありました。たまたま『じゃ、松本君に15P読んでもらいましょうか』なんて、教授が知ってか知らいでか松本を指名した日がありまして。僕が「ちょっと今退席してます」と言うと『早引きかな?』って(笑)
いちご白書をもう一度・・・・なんて歌が流行りました『学生集会へも時々でかけたぁ~♪』なんてね。でも、僕も松本も皆目無関心でしたね(笑)。
ある日、ハンドマイクで『民主の砦を守ろう』なんてアジってる奴がいたかと思うと、なにやら見たこともないヘルメットの集団が構内に攻めて来まして、こちらは人を沢山集めて腕組みしてね、人間の鎖みたいなのを急遽何重にも作って『帰れ帰れ帰れ~っ』なんてやってるんです。火炎瓶こそ飛んでこなかったものの木とか石とかね、いっぱい飛んできて、ワオ~とかウワ~とかねもう悲惨。僕らも一緒になって『帰れ帰れ帰れ~』ってやりましたよ屋上の上からだけど(笑)
で、『合ハイへは時々でかけたぁ~♪』ってとこでしょうかね(笑)
実はくだんの合ハイには2度ばかり参加したような記憶がありまして。楽しいかな?って期待はあるんですが、あんまり好きじゃなかったすね(決して良い思い出がないから言っているのではなくてね!)
まるで集団お見合いみたいでね・・・。みんなで品定めしているようで(笑)それが楽しいのだろうけども、やっぱよく考えたらちょっとね(笑)・・・みんなも目の色変ってるし、しまいに女の子の前で『お前っ、もうちょっと気の利いた服なかったんかいっ』とかね『そのおかしな帽子なんとかせいや』とか『お前、昨日可愛い子と二人で歩いとったやないかいっ』等と、あることないこと言い合いして足の引っ張り合いに・・・・・。
女の子と『ご趣味は?』なんてすまして話しているよりも、昨日の友は今日の敵?みたいな、う~んあいつはそう出るかぁ、こいつはこうするかぁ・・・みたいな駆け引きの方がよっぽど面白かったですね。
宝ヶ池での合ハイの時、みんなペアになってボートに乗ったのですが、男女15人ずつ位、同じ数だけ参加してた筈なのに、ボート乗り場で一人だけ呆然と立ち尽くしている友人がいてね。ボート漕ぎながら周りを見渡したら、何と一人で二人の女子乗せてる豪傑?もいました(笑)『アホォ~ちょっとは遠慮せいや!』みたいなね。
写真は、僕の下宿に彼が遊びに来た時のものです。
部屋の主は後ろにいる人なんですがね(笑)
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体育会。やっぱり昔は硬派でして、なかなか辞めさせてもらえなかったのです。キャンパスで先輩に見つかると、腕をぎゅっと抱えられて、スクールバスに引きずりこまれそうになったり『お前、そんなもん簡単に辞められるて思とんのんか』みたいなね(笑)・・・・・ちょっと学校行くのも、抜き足差し足でキャンパスを歩かなくてはならない時期もありました。優しい先輩は下宿まで訪ねて来てくれて『もう一回、一緒にグランドに出ようや』なんて。ここで僕が『はいっ!』なんて答えようものなら、これはまるで青春スポ根もののドラマみたいに・・・・・言いそうだったけども(笑)
要するに、先輩方の意見をまとめるに『お前、なかなか貴重なキャラしてるから、惜しい。マネージャーでもいいから残ってくれんか?』みたいな・・・・。そっちの方かいっ!みたいな。
体がもう限界や、多分向いてない、等とは感じながらも、やっぱり辞めるっていうのは実際辛かったですよ。
そのころクラスの教室も盛り上がってきていました。ホームルーム的な時間などでは、姫路の松本が『お~い!福頼。お前、昨日、三条京阪であった話、みんなにも聞いてもらえや』とか言うと、福頼が教壇に立って『昨日の夜の9時頃や、三条京阪のなあ・・・・』って皆に話を聞かせたりするんです。そして『めちゃベッピンに声掛けられてなあ・・・・・』とか言ったりしていると他の誰かが『お前、それって髪の毛の長い背の高い女やろ』って笑いながら言うと『せやっ。何で知ってるねん』『それは、あのあたりでは有名なオカマちゃんやんけ』って・・・・みんな大爆笑。
ある日は『福頼が、女の子と知り合う方法考えてきたらしいから、みんな聞いたってんか』って松本がリードすると、またまた彼が『え~それでは』って真面目な顔して話し始める。
教授が入ってきても『まあ、そのまま続けて続けて』って教授まで一緒になって聞いている。『え~っと、まずは、映画館なっ!』・・・・なんでも映画館に入る時にちょっと目をつけた子の横に座って、映画が始まって30分くらいしたら、トイレに行くふりをして席を離れて・・・・で、10分程したらまた戻ってきて『ごめん、席外してたから粗筋が分らんようになってしもた。簡単に教えて』って聞くんだと(笑)
他にも、公衆電話で話しをしている女性の話が終わるのを待って、終わればすぐその後で自分も電話をかけるふりをしながら『あっ!このお釣りあなたのじゃないですか?』と、あらかじめ用意した小銭を見せる・・・・・(笑)
まあ、実にくだらん話をするものだから非難轟々ではあるのだけれど、もう可笑しくて可笑しくて・・・・。
そんなこんな調子で、またある日は松本が『それでは今から合ハイの交渉係りを指名します』って。今では合コンって言うようですが昔は合同ハイキング。略して合ハイ。
『○○と△△お前ら来週までに話まとめて来てんか』ってね。
実際、係になってしまった者は、他の女子大なんかの正門で『こちらは男20人、そちらもじゃ20人でお願いします』なあんて、ちゃんと日時まで決めて来てくれて(笑)
『この指とまれ』なんてやったひにゃあっと言うまに定員オーバーに。
面白い奴がいるもんだと、感心することしきりで。特に目立ってました、松本君。
【続く】
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お気楽な、人生論とは程遠い日記にお付き合いいただいており申し訳ありません。m( __ __ )m ・・・・・・
何か、訳のよく分からないまま、体育会系としての生活が始まりましたが、ちょっといい感じでしたよ。登録したその日からR大のバッジと、何かしらアメラグ協会の会員証みたいなのがもらえるんです(笑)ちょっとミーハーですけどね。
今はない?衣笠グランドでの練習がしばらく続くのですが、練習中にそのグランドを応援団の下級生が横切って通過したんです。そしたらキャプテンの石本さんが凄い剣幕で『こらあ~っ、お前ら練習中のこの神聖なグランドを何やと思とんねんっ!』ってね。体当たりを食らわせんばかりに怒鳴ってるんです。その剣幕に団の下級生がペコペコ謝ってたんですが『お前らでは話にならんっ!幹部呼んで来いッ』ってね。
そしたら幹部が来て謝罪?してたりするんですが、まあ何か知ら凄いところに入ってしまったもんだと・・・・・。
授業のカリキュラムも本格的に始まると、新入生のクラブ勧誘も終わります。そしたらいきなり『新入生歓迎合宿』なんてのがありまして。何処だったか忘れましたが、泊り込みで練習。もうへとへとですよ。・・・・・・夜は夜で先輩が新入生の部屋にケチャップとマヨネーズを持ってきて『お前はどっちが好きや?』なんて聞くんです。まともに答えた友人は下半身ケチャップだらけにされるという、もう訳の分らん歓迎でね。僕はトイレに逃れて無事でしたけどね(笑)
アメリカンなんて、当時はそれほど人気もなくて、テレビなんかでも殆ど放送もなかったような時代。何人でするのやら、どうすれば何点入るのかも分らない中、先輩に『ルール教えて下さい』って言っても『ルール?そんなもんあらへん!敵の陣地にボール持って走って行ったらええだけや』って笑いながら答えてくれるだけ。
とにかく毎日が走れ走れ、当たれ当たれ、の連続で。プロテクターつけてヘルメットかぶって、汗まみれになって、傷だらけになって、打ち身や、多少の出血なんてケガのうちには入らないようなそんな毎日でした。
本格的な練習が始まると、衣笠からスクールバスに乗って、洛北の柊野グランドまで毎日通います。まるで隔離されたような山の中でしたね。
当たる練習も最初は怖かったですよ。最初は先輩に当たりに行って受けてもらうのですが、『よし!今度はこっちから行くぞ』みたいなね・・・・・ゴワンって音がしたかと思うと2、3m飛ばされてますから(笑)
西京極球場で関東の大学と練習試合をしたりするのですが、普段は練習に参加している人数だけではチームにならないはずなのに、もちろん僕らのような新入生は出してもらえないし、出たいとも思わないし(笑)試合が近づくとマネージャーがあちこち連絡を取るんです。ちょっと家の都合で田舎に帰っている人とか、学校にあんまり来てない人とかに・・・・そしたら当日にはちゃんとチームが出来上がってる(笑)
まあ、そんな調子で体育会系のノリも厳しさも面白さも満喫?し始めた頃、やってしまいます。
練習中に激しく当たった瞬間、首に激痛が走り、体中が痺れて、ばたっと倒れたまま動けなくなり、目を開けると景色がぼやーんとオレンジ色がかって見える。電気みたいな星がバチバチと一杯まさに満天の星空・・・・・・
人間不思議なもんで、意識はあっても首がどうにもならないと絶対に起き上がれないんですね・・・・・・必死で起きようとするのですが、尻を上げたり下げたりしかできなくて全くもって無様★
結局は頚椎の捻挫。首がちょっとへッ込んだ様子。亀じゃあるまいし、これじゃ目が出んどころか首も出ん・・・・・・
しばらくは練習を休ませてもらって見学みたいな状態になるのですが、新入生の一人減り二人減りの中、僕も退部を決意するのです。
藤本に聞いてもらえば分ると思いますが(笑)夏休みまでもたなかったね。僕の体育会生活。
でも、藤本はエライですよ。僕と同じ全くの素人で始めたこのアメラグ。最後まで頑張って後に、R大アメリカン・フットボール部のキャプテンを務めることになるんです。どんなことがあっても僕は、彼には絶対頭の上がらないところです。
写真は数少ない、彼との一枚です。
大教室にて。
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入学してしばらくすると、少しずつ周りの様子が見えてきます。一番目に付いたのは奈良の藤本。ジーンズがとてもよく似合う、クラスでもNO.1のカッコ良さでした。癒し系な印象の石川。突っ込み専門の北岡。真面目で背の高い出井。前から見ても横から見ても後ろから見ても、どう見ても遊び人にしか見えないR高から来た山本に吉川。ラグビー部のやんちゃなこれもR高の川崎。京都の呉服屋の御曹司の有吉。正露丸の御曹司の柴田。めちゃハキハキしてた黒松。スポーツ万能の西川。一見外人っぽい倉敷の中道。いつもチリ紙交換の軽トラに乗って通学してくる25歳の竹田。奥のありそうな西山。加山雄三が大好きでヨット部に入った若大将の松本、そしていつも松本とコンビを組んで笑わせてくれた青大将役の福頼・・・・・すべて敬称略(笑)
さすが寄せ集め?だけあって僕の6Bというクラスは個性派揃いでした。3,4年のゼミクラスよりこのクラスの方がとても居心地が良かったような印象も。
さて、実は、僕は入学以来、応援団の幹部の一人に声を掛けられて、ちょっと話をしたのをきっかけに、毎日その幹部に声を掛けられて。お茶は奢ってもらうわ、何でも相談に乗ってもらうわで・・・・でいつも『お前みたいな奴が好きだ。是非俺と一緒に団を守っていこう』みたいなスカウトを受けていてね。とてもいい人だったんですが、当時のRの応援団なんて言ったら硬派も極致でね。お茶を奢ってもらってる中、周りを見てたら、その幹部がタバコをくわえるかくわえないかの瞬間に下級生がパシッとライターに火をつけて、まるでスナックのお姉さんくらい手早くね(笑)幹部の話には常に『押っ忍』って相槌うちまくっているし、校内で幹部に出会ったら、両手に持っているカバンや教科書みんな放り投げて『押~~~~っス!』って合掌してるし(笑)
とにもかくにもそのスカウトから逃れるためには、なんでもいいから他のクラブに入ってしまわなくては!というのが僕のおバカな結論で。
心を決めた翌日、僕はサッカー同好会に入ろうとキャンパスをうろつくのですが、見当たらず・・・・・ちょうどそこで同じくうろついていたクラスの藤本を見つけ・・・・・彼が言うには『ちょっとアメ・ラグ覗いて見やへん?』
そんな訳で、藤本を始め10人位のメンバーで、先輩に誘われるがまま練習グランドに入ります。10分ばかり練習を見学して『なかなかカッコいいやんな!』なんて言っているとキャプテンらしきイカツイ人が『全員集合~~~っ』って声をかけて、僕らの前に部員が集合したかと思うと、即座に円陣になって僕らを取り囲み・・・・・・そしてキャプテンが言うのです『今から新入部員を紹介する』・・・・・・続けて言うに『よし!ほんならお前ら端から順に出身高と名前言うていけっ』
一番端にいた奴がどぎまぎしながら「○○高から来ました△△ですっ」と言うと『声が小さい~~~もいっぺんっ!』・・・・・・・もう有無を言わさずとはまさにこのことで。僕も藤本もありったけの声出して自己紹介しましたよ。
全員の紹介が終わると『よし!そしたら明日からしばらくここで練習に入るから、明日は10時にここに集合な!絶対来なあかんぞっ!』
そんなこんなで、突然な事に、僕の体育会生活が有無を言わさず始まるのでした。
続く・・・・・笑
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当時のR大はライバルのD大(向こうはライバルだなんて認識は全くないのですがね)によく比較されて、京都では『R大生は親孝行』なんて良く言われたものでした。記憶は定かではないのですが授業料もD大と比較して安かったのでしょう、年間8万円という時代でしたが、それはそれで大変な額だったとは思いますが。
大学に入ってクラス分けがあって、40人程度のプレゼミのような形式で、一応ホームルーム的な時間が持たれます。まず最初に、一人ひとり自己紹介を、というような時間があって、順番に立って紹介を始める訳なんですが『網走から来た○○です』とか『因島の○○です』とかね。中には『大阪の○○です、社会人休んで入学しました。25歳です』なんてオジサンも混じってましたけども。
みんなの自己紹介をまとめるに、エスカレーターでR高校から上がってきた者が10人程度、他大学を落ちてここに来たという者が約20人、何処でも良かったという者と、京都が好きでという者が10人程度の計40人。・・・・・何か最初から盛り上がらないったらこの上もなくて・・・・。
そして、一番多かったコメントが『いいバイトあったら教えて下さい』みたいな。こんな寄せ集めみたいなクラスってと心配になったりも。でも、もっとがっかりしたのは他でもない、クラスに女生徒が一人もいなかった事(笑)
そして、そんなこんなの中、僕の学生生活は始まります。なんか不安でしたよ、みんな真面目なのか白けてるのか全く分りませんから。
僕は正直、D大を落ちてR大にという進路だった訳ですが、確かにD大の前を通ると、目にする景色がとてもカラフルで(笑)お洒落というか派手というかね。その点Rははっきり言って地味。モノトーン。(今なら逆にお洒落なのかも知れないけども・・・・)
そして、耳にはしていたけれども、左翼的巣窟?のような校風、教授陣も生徒会も。冷暖房もない教室はガラス割れたままだし、何かある毎にキャンプファイアーじゃあるまいし焚き火つけて輪になって歌ってるし・・・・・
とまあ、そんな印象で。でもよく考えたら、遊びに来たんじゃないんだから、地味に溶け込んでしまうのもいいか!?みたいな結論で。
よく昔、旺文社の蛍雪時代なんかの表紙を見るに、キャンパスの緑の芝生の上で数人がギター抱えて、楽しく歌を歌っているような風景があるじゃないですか(笑)
まあ、程遠いものでしたね、憧れとは。芝生のしの字もないんですから・・・・・。まあそんなレベルの頭脳構造しか持ち合わせていなかったおバカな僕の入学当初でした。
【人生論】などとは程遠いお話になっておりますが、また続きます(笑)
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バレンタインだというのに、ひどく大荒れのお天気です。まあ、僕みたいなおっさんには、あんまり関係はないのですがね。
もともとが、このブログ。中年広場みたいな、ちょっとレトロな憩いの場みたいなね、そういう場所が提供できたら・・・・というのが僕の思いでして。故に、あんまりパッとしない今現在の話も交えながら、昔懐かしの記憶の中から、面白い話などをお聞きいただこうかと・・・・・。
もうすぐ、丸一年になるこのブログも、お陰様でいい人ばかりに集まっていただくことができて、私の思いも通じたのかなと、感慨も深いものがあります。
とても残念なことに、先日、大事な友人を失ってしまい、改めて彼の事や、自分の大したこともない人生などを振り返ってみたり。
もちろん、タイトルにあるような【人生論】などと大げさな事など書ける人間ではありませんが(笑)適当なタイトルを思いつかなくて。
僕は子供の頃、とても内向的で、遊びといえば絵を描いたり、プラモを作ったり、犬と遊んだりと、どちらかというと男の友達よりも女の友達の方が多かったような。ダックスさんともよく毎日くらい遊んでいたような記憶があります。
運動が大の苦手で、ドッジボールや鬼ごとやかくれんぼ等、みんなの格好の餌食になって、今で言うイジメの様なものに遭っていたつらい時期の記憶もあります。
こんな記憶もあります。
小学校の遠足か何かで、お寺の境内に全員整列している時、何羽かの鳩が僕らの上を飛んで通過していって、糞を落としていったのですが、よりによってそれが僕の帽子だけを直撃する。テーブルマナーの最後にフィレステーキが出てきたのは嬉しいが、僕の肉だけあきらかに他の誰の肉よりも小さいし焦げている。修学旅行で旅館に泊まった時、当時アイドルだった小林幸子がその旅館に遊びに来ていて、旅館の主人のちょっとした計らいで、急遽サイン会が始まって、みんな列を作って一列に並んで、自分のTシャツやノートにサインをしてもらう。何十人の子がそのサインをもらっただろう。そしていよいよ僕の番。ワクワクしながら小林幸子の前に立つと『ごめんなさい!今からお仕事あるから、ここで終わりますねっ』・・・・。そして大広間から自分の部屋に戻る時、ぐずぐずしていたら最後になって、前にいた子が履いたのが最後、僕が履くスリッパだけがない。そして、ちょっと恋心を抱いた女の子は転校してしまうし・・・・・・。
思い出せば、どこか、まぬけな、何かしら足りない、ぐずい、幸運とは全く縁のないような暗くも淋しいような僕の姿が浮かび上がってきます。それでも厳しいながらも父は優しかったし、母の愛情は格別に感じながら、自分にはとても居心地のいい居場所があったのは間違いのない事実で、ここのところは改めて感謝するものです。
ところが、中学に入って、違う校区から来た一人の友人とめぐり合ってから、僕の全く面白くも何ともない?生活は一変します。同じクラスで、同じバスケ部に入って、休みの日も一緒に遊ぶ。そして、だんだんと交遊も広がり、苦手だったスポーツも大好きになり体力もついてきて、かつてイジメられた奴らをからかえるようになるほど、一人の男としての自信みたいなものが備わってきたのです。
無論、内面的にそういった要素みたいなものも、もともと僕は秘めていたのだと言えばそれまでかも知れませんが、一人の友人と知り合う事ができたことによって、新しい一面がうまく引き出されて行ったのだろうと思う訳で、このあたりで僕はやっぱり友人の大切さを身にしみて感じるということになります。
いやいや行っていた小学校と違い、学校に行くのが楽しみで仕方がない中学校生活でした。
やがて中学、高校と、僕はとてもいい友人達に囲まれて成長(多分ですけど・・・)していきます。そして大学へと進んで・・・・。
ここでもやっぱり不安だらけでした。丹波の山奥から京都という大都会(そう思ってました)に出て行く事。憧れだった京都で生活できるんだという嬉しさと、やっぱりまだ心の奥底に残る、僕の弱気なところが交錯するのです。
やがて、大学での生活が始まって、同じ下宿になったわかめさんと知り合い、その下宿のすぐ近所に住んでいたK平という友人を得、クラスが同じだった松本という友人にめぐり遭うのです。もちろん同郷の友人とも交遊は深まるのですが、大学に入ったことによって知り合えた友人として紹介していきたいと思います。
長くなってしまいました。この続きはまた次回に書かせていただきます。
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一昨日、Tomさんから携帯に電話が入って、慌てて出ようとして間違って切れてしまって・・・・・
今日はまた遊びにでも来てくれるのだろうと思いながら、すぐに携帯に掛け直したら、電話に出たのは彼の奥さんでした。
「ごめん切れてしまった(笑)」・・・・・
『あの・・・・・』
「どうしたの?」
『主人が・・・・・・』
大学時代以来の付き合いを続けてきたTomさんこと、松本智典君が、突然倒れて急逝しました。6日の夜だったそうです。
あまりにも突然で、言葉もなくて・・・・・
彼女の声を聞いていたら僕まで泣けてきて、お悔やみも慰めも言えなくて。
今日、姫路まで彼とのお別れに行って来ました。遺影を見るだけで泣けてきて。葬儀の間中そのにこやかな表情の写真ばかりを見ていました。
そして、大勢の人達に見守られて、松本は斎場を出て行きました。もう二度とあいつの優しさに触れる事はできません。
一緒に過ごした京都での楽しかった想い出とともに、今日の一日の記憶は決して忘れることはありません。
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写真は、私が京都に住んでいた頃の電話BOXなのですが。昭和40年代の後半ですね。
当時のBOXは、まるで鉄の箱でして、ドアを開けるために、取っ手代わりの丸い穴が開けてある以外は、全くの密閉状態で、冬ですと寒さも多少しのげますから、中で酒に酔ったオジサンが寝ていたり、トイレ代わりに、中で用を足したりする輩もいたりとかで、徐々に中の見通せる全面ガラス張りのタイプのものへと移行していく訳なんですが。
わかめさんが、この頃ちょっとご無沙汰なので、彼との想い出なんかを書かせていただくことに・・・・・・・
ある日の午後、わかめさんと飯屋で食事を終えて下宿に戻る途中、僕が『あっ、俺ちょっと彼女に電話するから、わかめさん先に帰っといて』と言って、わかめさんと別れてこの電話BOXに入ったのです。
まあ、電話とはいっても特に何て事もない、取りとめもないような話をだらだらと話していたのだろうと思うのですが・・・・・
急にお腹がゴワーンと張ってきて、何かね、困った事に『Pu~!』っとしたくなってきてしまったんです。最初は辛抱していたのですが、とうとう我慢も限界に来て・・・・・やっぱ彼女に『Pu~!』って、いくら電話とはいえ聞かれたら恥ずかしいじゃないですか(笑)
そこで、とっさに気がついたのがドアの丸い穴。『そうだ!ここだっ!』僕は、お尻をその穴にピッタリと当て、よしっとばかりに『プゥ~~~~~☆』と。
これがまたあの中学校の体育館の出来事にも匹敵するくらいの、我が生涯でベスト3にもランキングされるくらいの大物で!・・・・・・
と同時に電話BOXの外で『うわ~~~~~っ』という男の悲鳴が。
驚いて外を覗いて見ると、わかめさんが道路に仰向けにひっくり返っているではないですか!
『あほお~』とわかめさん。
何のことはない、わかめさん、僕が彼女と一体どんな話をしているのだろうと、興味津々でBOXの外から取っ手の穴に耳を当てて、ずっと話を聞いていたんだと。
『あほおっ、急に屁すなよ』「なんでやねん、そんなことしとるお前の方がおかしいわっ」・・・・・・と二人で大笑い。ハッハッハ~ワッハッハ~もう可笑しくて可笑しくて電話どころじゃない。彼女には『また掛けなおすわ~』って・・・・・。
もう5分くらい笑いがおさまらず・・・・・・・
わかめさん覚えていらっしゃいますでしょうか?
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K平さんが、ちょくちょく(笑)顔を出してくれるようになったので、またまた彼との想い出話しでも・・・・・
ある日の午後、下宿で退屈していたら、K平が遊びに来た。
部屋に入るなり、持ってきた三文週刊誌をパラパラと開き『え~っと、どこやったかいなあ・・・・』と言いながら『おお、これや!お前これどないや』と言う。
見てみると何やら、遊びのスポットみたいな感じで書いてあったのが「東山七条の通称【おんな坂】の下にある、喫茶○○○○。ここは午後にでもなれば女子大生で常に一杯。まさに女の熱気がムンムンだ。一度あなたも訪ねてみては?」とある・・・・・。
『あほぉ~、こんなもん見に行ってどないすんねん、ど~せ嘘に決まっとるやんか(笑)』と言いながら他の話をしばらく・・・・。あれやこれやと2,30分話したのだが、ちょっと話が途切れて、あくびをしたり、寝っころがったり・・・・・。
『しかし暇やなあ』『すっことないなあ』・・・・・
『K平!行くど~』『よっしゃ~』
お暇な二人で行ってまいりましたよ。
問題の喫茶店はすぐに見つかって、二人半信半疑で中に入って行きました。『どうせ、んなもんガセネタに決まっとるやろ』と笑いながら入っていくと、何と30位テーブルのある店内はほぼ満員!かろうじて一席だけ空いていた席に陣取って、コーヒーをたのんで、もう一度店内をじっくり見回すと、週刊誌に書いてあったとおり、ほんとに女ばかり、端から端まで女だらけ★まさに女の熱気がムンムンムンムン・・・・笑
5分もしないうちに『おいK平、何や息苦しいないか?』『何や圧倒されてしんどなってきたわぁ』『無茶苦茶居心地悪いなあ』『なんやら場違いもええとこやな』『さっきからジロジロ見られてるで』・・・・・
てな訳で、ささっとコーヒーを飲んで、ささっと出てまいりました(笑)
帰りの車の中で『アホッ、お前がしょうもない話し持ってくるから恥かいたわ』『なんでやねん、お前さえ行こうて言わんかったらあんなとこ行っとらへんわ』『お前やちゅうねん』笑
それにしても、お暇な二人。女だらけの中で、宙に浮いたようになって、酸欠のまま無残にも玉砕したのでした。
『女はもうええから飯でも食いにいこら~』『ほんまほんま』
写真は、そのK平さんが、僕の長男が生れた時の写真をもとに描いてくれた油絵です。
ずっと僕の部屋に掛けてあります。
大事な宝物です。
(写真はクリックしていただくと大きくなります)
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昨日は、久々の休みを利用して、年末に横浜に引越しする次男の、不要になった荷物等を取りに宝塚のアパートまで走って来ました。
意外に不要な物が多くて、一回だけでは積み足らず、一旦昼過ぎに戻ってきて、夕方二回目を敢行した次第。
家で3時間ほどの時間的余裕ができたので、ちょっとゆっくりとくつろいで、珍しく、おふくろとティータイムをしました。
この時に、僕が『おいしい紅茶でも入れてあげるわな』と出してきたのが、トワイニングのPrince Of Wales だったのですが、ゆっくり時間をかけて作った紅茶って、ほんとにおいしいものですね!お菓子をかじりながら、ゆっくりと時間を過ごすことができました。
そこでふっと思い出したのがこの紅茶。
それまでは、トワイニングなんて名前は聞いたこともなかったのですが、日東紅茶かリプトンしか普通知らないですよね普通。35年も前の話ですもの。
ところが、僕の隣の部屋に下宿していたわかめさん。彼に作ってもらった紅茶のおいしかった事。
『うまいだろっ、これがトワイニングじょ!』という訳で、中でもこのPrince Of Wales が最高なんだそうで、以来ちょくちょくこの紅茶を飲むことに。何でも葉っぱのブレンドの際にブランデーなんかが滲みこませてあるらしくて、香りも最高。さすがグルメなわかめさんなのでした。
写真はその頃、下宿の階段で、きんちゃんラーメンをほうばる私と、わかめさんです。
彼の叔父さんが徳島製粉の社長さんでね、わかめさんの部屋はラーメンで一杯でしたよ(笑)たくさん分けてもらいましたね!その節にはいろいろとお世話になり・・・・笑
紅茶でもうひとつ、当時の話しを思い出したのがK平さんの事です。
ある日、僕の部屋で紅茶を作ってね、トワイニングじゃなかったですがね。ティーパックをそれぞれのカップにいれてお湯をそそいで・・・・。しばらくおいてからパックを上下にゆさゆさして。僕は紅茶が出来上がったので、そのパックをヒョイっとつまんで、灰皿に捨てたんです。・・・・・そしたらK平さん『おお~い、お前ってそんな贅沢な飲み方しとるんか~』と怒るように声を荒げて言うのです。『ほんまにお前って何にも知らん奴やねんなあ』と言いながら『あのな、こんなもん2回でも3回でも使えるんやぞ!』と僕に教えるように2回、3回と紅茶を飲んでは作り、また飲んでは作り・・・・『なっ!ちゃんと色が出たぁるやろな!』
4回目くらいになって、それまで静観していた僕が『なんや色も出んようになってきたなあ』と突っ込みを入れると『そういう時はこうすんねん』とK平くんはスプーンでパックをぎゅうぎゅう押すのでした。するとまた押し出されて色だけは出てきて・・・・
でもちょっと強く押しすぎてパックが破裂!紅茶が葉っぱだらけに・・・・笑
K平くんすました顔して『まあ、これで終わりやちゅうこっちゃ』
僕が一回でパックを捨てた時のK平くんの顔といったら驚嘆と言おうか軽蔑と言おうか、ほんまにこんなアホ見たことない、とでも言いたげな・・・・・そんな表情だったのがとても可笑しく、今でも忘れられないのです。
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前回にお話しておりました、おさむの中学時代のスケッチブックを、ちょこっとご覧いただきたく思います。
42.10.13.の日付とか下手くそなサインとかがブックに入ってまして、多分、中学時代で間違いはなさそうです。
まさか(;゚д゚)ァ..42って1942年ってことじゃないよね(笑)
何かね、昔は一人でごそごそ絵を描いたり、犬と遊んだり、ギターの練習をしたりとかね(笑)おとなしくて目立たない子供だったのかも知れません。
かといって、今、目立ってるという訳でもないんですがね(笑)
ここでクイズ!!
加山雄三は似てないですけどね(笑)絵に汚い字で【加山雄三】って書いてしまってますから、誰が見ても加山さんなんですがね(笑)
もう一人の男性は一体誰のつもりで描いたのでしょうか?
賞品はでませんが(・ε・;)
皆さんのお答えをお聞きしたく思います。
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家のどこかに、あの頃の作品が残してあるはずと、ちょっと探してみました。
何枚かは、記念に持って帰った筈なのですが、残念ながら一枚しか出てきませんでした。
数少ない採用された私の作品のうちの一枚です(笑)
実際に使われたために切り目が入っていますが、何とか原型を残しております。
この柄が当時の、ブラウスとかスカートとかのプリントに使われたということなんですが、色んな色に置き換えてプリントされました。
ここで、むずかしいのは、原稿を描く画用紙の大きさは様々なんですが(写真は上下左右をカットして写しております)プリントする布地は大きく長いものですので、例えばこの図案でいくと、一番目立つ黄色の花が、その大きな布地にプリントした時にどんな散らばり方をするか・・・・が問題になるんです。偏りすぎてもだめ。離れすぎてもだめというように。
しかも、この左の写真の図案の右上の黄色い花を見てもらえると分りやすいのですが、この花と右の写真の図案の左側の花との絵がぴったりと合うでしょ。これを図案の【送り】と言うのですが、この送りがまた難儀なんです。
こういう送りの繰り返しでプリントされるという訳で、説明も図案も稚拙ではありますが、ちょっとはご理解いただけたでしょうか(笑)
要は、なかなかむずかしい訳で・・・・・・
次回はこの図案を探していたところ、私の中学の頃のスケッチブックが出てしましたので(笑)その中から少しましなものをUPさせていただきますね!
あと、今日は先日ママ宗さんよりいただきました【正宗】君の画像を貼らせていただきます。
いやあ、ほんとたくましく大きくなりました。
今で、まる9ヶ月くらいでしょうかね。もう立ってます(笑)
いよいよこれからが大変なんですよね。少しも目が離せないって時期です。ママ宗、チチ宗さんの育児奮闘記ってところでしょうか。
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学校を出たら、家業を継ぐ。長男なんだから。
ただただ漠然とそう思っていた僕は、まともな就職活動もせず、友人の知り合いのつてを頼りに、所謂、丁稚修行をさせてくれるような所を探していたのでした。
仲の良かったTom君やK平を始め、友人の殆どがいい所に就職が決まって『これでお別れやね!』と声を掛けながら、淋しい気持ちでいっぱいだったのと同時に、きれいに髪型を揃えてスーツを着た友人達がとても眩しく見えたのを今でも忘れる事ができません。
京都に憧れて、京都に進学して、そしてあっという間の4年間が終わり、それでもなお京都という所に未練があって、丁稚先も京都で、と思っていた僕は実に甘い男でした。
幸いにも、この僕の、面倒を見てくれるという人がいて、4月から二条城の近くの生地問屋さんでお世話になるようになったのですが・・・・・
いやあ、もう厳しかったです。
当然、朝一番に出社して、事務所からトイレからそこら中きれいに掃除して、先輩社員の出社を待ちます。当たり前のことなんですけどね、丁稚ですから。新入ですから・・・・・
電話の一本も受け答えができなくて、伝票一枚書けなくて・・・・・『お前ほんまに大卒かっ!』って先輩によくからかわれたものです。
誰にも行き先を告げずに前の下宿から引越したものだから、訪ねて来てくれる友人もない。淋しくて、大学近くの喫茶店や本屋を訪ねてみても、いつもと同じ慣れ親しんだ景色の筈なのに、顔見知りが一人もいない、というだけで全く別の景色に見える。
『もう自分の居場所はなくなったんだ』・・・・・おバカな僕はその時初めてそう感じたのでした。
こうなったら、やるっきゃない!
真面目に真面目に丁稚に徹することに、それしか僕の居場所はないんだ・・・・・。
時には掃除夫、時には社長や時々来られる社長のおばあちゃんや、娘さんのバレエのレッスンの送り迎え、奥様のお使いで銀行に走ったり、駅まで切符の手配に走ったり。
たまの日曜日も『明日空いてたら大津まで荷物取りに行ってほしいねんけど・・・』
実によく動きましたよ、あちこちと(笑)『おいっ!今からすぐ伊丹まで走ってこの荷物、航空便で出してくれ!』『明日、茶色のライトバン、東京まで運んでくれ、帰りは新幹線で帰って来てんか』・・・・・伊丹空港なんて行ったこともない。ましてや、いきなり東京と言われてもね・・・・・行きましたけどね(笑)
社長の秘書としてスーツを着て、出張のお供をしたり、工場で染料にまみれながら反物に絵を描いたり、清水のアトリエでテキスタイルのデザイン画を描かせてもらったり・・・・・なんだかんだと言いながらも、だんだんと新しい居場所ができつつありました。
写真は当時の工場で、染料の調合をしている時のものです。
髪の毛が生涯最高に長かったときでもあります。
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実は8月中に、夏が終らないうちに夏の想い出話を書こうと思っていたのですが、何やかやで9月になってしまいましたが・・・・K平君との想い出話パートⅡです(笑)
3年の夏休みに入って間もない頃、K平君が僕の下宿に『おるかぁ~』って来て。『お前何か予定あるんか?』って聞くから「予定ちゅうことでもないんやけど、友達んとこに4.5日遊びにでも行こかなあて思てる」と答えると『何処や?』って話になって。
実は、同郷の友人が三重県の津市にある三重大学に行っていて、それまでにも何回か突然訪ねて行っては世話になっていたのだが、また一度行ってみようかなと思っていたところだったのだ。
「K平、お前も行くか?」『おお~っ行く行く!』「ほな、今からすぐ出よか」・・・・・
京都から名神に上がって栗東で降りて、後は亀山だったか関だったかで昼飯にして・・・・三重大の正門に着いたのが2時過ぎだったかと・・・・。
いやあ、夏の三重大ってとてもいいですよ。何せ海が大学のすぐ裏にあって、夏休みだったとは言え、通っている学生は麦わら帽子かぶってたり、ビーチサンダルみたいなのはいてたり、水泳の用意らしきものを片手にぶら下げてたり・・・・まるでリゾート地の様相ですもの(今は知らないけどね)学食行っても『飛び魚のから揚げ』なあんてのがメニューにあってね、生まれて初めて食べさせていただいたものです。
さて、学内に入って行くとお目当ての友人は何やらクラブ活動中(野球部キャプテン)ということで、『どっかで時間潰しててくれ』って・・・・。
仕方がないから「砂浜に出よか」ってK平と一旦学校を出て海水浴場へ。
結構人影もまばらで、実にのどかな雰囲気・・・・・「よしっ!」とばかりに車を砂浜に入れて走り回ることに(笑)「おりゃーっ」『スピンターン』「ドリフトドリフト~っ」と若気の至りそのもの。四駆でもない車で砂浜を走り回っていたのだから、おのずと結果は分かってるようなもので。
ものの5分も経たないうちに、ゴゴゴゴゴっ・・・・・後輪が砂にはまってしまった。いくらエンジン吹かしてもビクともしない。却ってよけいにめり込んでいくだけ。前進もバックも駄目!
仕方なく、車を降りてその辺に落ちている、木片やら藁やら石やらを集め回って、タイヤの下に詰めまくって・・・・穴を掘り・・・また詰めて・・・「俺押すからK平はギアセカンドでゆっくりな」・・・・また掘って・・・また詰めて・・・運転変わって・・・タイヤの空気を抜くって方法もあるにはあるのだけども、それは最後の最後の手段ということで・・・・
悪戦苦闘、真夏の炎天下の日差しの下、約20分。もうこれ以上汗も出んという時、ようやく脱出に成功!急ぎ車を安全な所まで動かし、自販機の飲み物を飲みながら『アホやのお』「想像せんでもなかったんやけどな」『アホを絵に描いたようなもんやな』笑・・・等と木陰で腰を下ろし、海を見ながら一服をしていたのだった。
・・・・・煙草を一本吸い終えるかどうかというタイミングだった。僕らの目の前を、一台の真っ黒なグロリアが砂煙を上げて勢い良く通過していった。そしてあろうことか、今さっきの僕らと全く同じように、砂浜で暴走を始めたのだった。
「おいおい、おんなじことやりかけたでぇ」『わしら以外にもアホはようけおるんやなあ』「嵌まるやろな」『こら見ものやな』笑・・・・・等と言っていた矢先、案の定そのグロリアは、またまたアホを絵に描いたように・・・・・ゴゴゴゴゴっ・・・・・後輪を砂にめり込ませて立ち往生してしまったのだ。
どうするんだろ?とは思いながらも、僕たちは内心腹の中では大笑いしながら、見物を決め込むことにしたのだった。「さあどうするんやろな?」『楽しみやね』・・・・・
僕らより少し年上くらいの若い運転手が車を降りて、しゃがみ込んだり、覗き込んだり、またエンジンを吹かしてみたりと一向に埒があきそうにもない。
やがて、僕ら二人に気がついたようで、息を切らしながらこちらに向かって走って来た。『あのう・・・』と僕らの顔色を窺いながら『ど、ど、どうしたらいいんでしょうね?』
僕とK平は、その一言に半ばあきれながら顔を見合わせ「そら出さなしゃあないやろ」『なかなか出んで』と答えると『ど、どうして出すんですか?』と言う。間髪を入れずに僕が答える「助けてほしいならお願いしますてちゃんと言えやっ」『お、お、お願いします』「んなもん、こんなとこで走って回ったらめりこむんに決まっとるやろな」『は、はい・・・』・・・・自分の事は棚に上げて説教する僕の横でK平が笑う笑う・・・・。
そんな訳で、つかの間の休息の後、またもや炎天下での作業となってしまったのだったが、タンカを切ってしまった以上はちゃんと最後まで面倒をみてやらねば、の気持ちだった。
車の状況は僕らのよりも深刻だった。『後ろ両方とも入ってしもてるで』「時間かかるかもやなぁ」等と言いながら、僕らが嵌った所からそう離れてなかったので、そちらを指でさしながら若い兄ちゃんに「あんた、あの辺に木やら藁やら落ちてるから全部持って来てんか」『はいっ』みたいな・・・・。
「前輪の方にもレールみたいなん作った方がええかもやな」『前も掘ってみるわ』とK平と相談しながら掘ったり詰めたりと、またもや汗だくになりながら5,6分作業をした頃にふと車の後部座席をよく見ると・・・・後ろのウインドウはスモークがかかっていたのでそれまではよく見えなかったのだが、何と男が二人煙草を吸いながら、まるで他人事のように知らん顔して座っているではないか!・・・・・・キレた。完全にキレた。頭の中でプチっと音がするくらい無茶苦茶キレた!
表情が一変した僕の顔を見たK平が慌てて後ろから僕のTシャツを引っ張って止めようとするその手を払いのけ、僕は後ろのドアを勢いよく開け怒鳴った「コラぁ~お前らの車とちゃうんかいっ!すぐ降りてきて手伝わんかいっこのボケがっ!」
男たちは何も言わず、ちょっと苦笑いもしながら車からのそのそと出てきた。そして『ばれたらしゃあないなあ・・・』と言った。「アホかっ、ばれるも何もないやろ」と言うと『ほな始めよか』と言いながらおもむろに上着を脱いだのだった。
驚いた!何と、上着を脱いで上半身裸になった二人の男の背中には、見事としかいいようのない、大きな刺青が入っていたのだった!
K平と目を合わす。お互い目が点。二人同時に自分達の車に目をやる。距離は30m。もしもの事があればダッシュすれば間に合うはず。僕らの車は安全な所にあるのだ。逃げ切れる。・・・・・お互い、目だけでそう打ち合わせができたような感じだった。
「ほなやってもらうで。あんたは石拾てきてんか、あんたは木や」。K平も『その辺に落ちとるやろ』などどやっている。『兄ちゃんこんなもんでええか?』等と言いながらヤクザが石を拾って来る。『こんなもんしか落ちてないわ』等と木を拾って来る。「ほなそれを前のタイヤの下に詰めてくれ」「後ろもうちょっと掘ってんか」・・・・・・
実に予想もしない展開だ。事情が事情ではあったものの、僕達普通の学生が刺青ヤクザを顎で使っているのである。知らぬ者が見れば全くもって異様な光景に映ったに違いない。K平と目を合わすたび思わず笑いそうになるのをこらえ、「さあ押してみよか、いくで~」『後ろ回って後ろっ』「もっと腰に力入れんかいっ」・・・・・僕らも勿論だったが、彼らの背中の刺青にも玉のような汗が流れ出ていた。
最後は若い兄ちゃんが運転席に座り、僕らと刺青との4人で必死になって車を押した。空転するタイヤが砂を一杯跳ね上げて、刺青も隠れてしまうくらいに砂だらけになりながら頑張って、ようやく車は脱出した。
「よっしゃ~」『おお~っ』僕らと刺青は同時に歓声を上げたのだった。
僕達はもうへとへとだった。また元の木陰に座り一服を始めた。無事に脱出したグロリアは僕らの目の前に止まり、後ろの刺青が窓を開け顔を出して『兄さん方世話になったなあ。ちょっとそこで待っといてくれんか。後から若いもんに礼に越させるよって』と言った。そして、軽く右手を挙げて二ヤっと笑って『ほな』っとグロリアは走り去って行った。
K平と二人笑いながら「金一封でも持ってくるんちゃうか」『一万くらいくれるかもや』と話していたのだが・・・・・「やけど、まさか礼って・・・」『お礼参りってよう言うやんな・・・』・・・・★!
二人言葉もなく同時に立ち上がって「あかん、逃げよ」『嫌な予感するわ』と、大急ぎでその場を離れた。あんまりにもボロクソにものを言っていたものだから、ひょっとしてという負い目もあって、僕らにはそのお礼とやらを待っている勇気はなかったのだった。
逃げるように猛スピードで三重大の構内に入り込むと、友人が丁度クラブを終えて僕らを探しているところだった。『お前ら一体何処で時間潰してたんや?』と聞くので僕は答えた「時間どころか肝も潰してきたわ」・・・・・・・。
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京都で生活するようになってから、Tomさん、わかめさんと知り合うことができましたが(前掲)もう一人、新しく友人になれた人にK平君がいます。学部が同じ、下宿が近く、故に時間割や通学路が全く同じ。
そんな訳で入学した春にはすぐに仲良くなっていました。
彼は奈良の山奥育ち、私も兵庫の山奥育ちということで、意気投合も早かったようです。
彼は、ほんの一瞬、チラッとみた瞬間、中村雅俊にそっくりで(笑)身長も高く、曲がったことが大嫌いの実直な、しかも歌を歌えば実に優しい声で歌うものだから、私のよきライバルでもありました。
勿論、あちこちでモテていたような記憶があります(笑)
でも、コーヒー専門店に入って大声で『クリームソーダ!』等と満員の客が大笑いするような注文を真面目にしてみたり、ブリーフにマジックで『K平』などと大きく名前を書いていたりと、カッコ良さと田舎モンが同居しているようなところが彼の最大の魅力でもありました。
ある日のこと、彼が私の下宿に来て、少し悩んだ様子で『おい、ちょっとお前の力貸してくれんか?』というのです。「どないしたんや」と聞くと、何かサークルだか、バイトだかなんかで知り合った高校生の女の子がいて、どうも彼にお熱を上げているらしい。別に深い関係も何もあったもんじゃないのだが、ちょっと異常にお気に入りになられてしまって。
彼は真面目だから、付き合ったりする気はないとはっきり言いたいらしいのだが、彼女を傷つけるのにも抵抗があるのだと言う。・・・・・そこで何故か私の出番!?
『なあ、お前引き受けてくれんか・・・?』「えっ!わしがその子と付きあうんかい?」『せや!』「せややあらへんがな、お前の事が好きやて言うてる子が何でわしと付き合うんやなっ!アホ言うなや」『いや、お前なら絶対気にいられるはずや』「待て待てっ、お前の言うとることおかしいでっ」・・・・・どうやら近々、彼女の誕生日会があって、彼女の家に招待されているのだと、彼女の友達も何人か来るとのことで、とりあえずは私にその日付き合ってほしいのだと・・・・・・・もっと、ちゃんと断ればいいものを、そこがなかなか言い出せないようで・・・・・
「まあ、ええわ。ほな一緒に行ったるからまた飯でもおごれよ」『ほな頼むわぁ』
で、当日。
車で下宿を出て高槻だったか茨木だったかに向かう・・・・・その車の中で作戦会議(笑)
「K平なあ、お前、彼女がおるからってはっきり言うたらどないやねん」『いや、前に今はおらんて言うてしもてる』・・・・「そおかあ・・・まずいなあお前(笑)」『何とかお前気引いてくれんか?』「アホ!やから俺はいらんて言うてるやんかっ」・・・・・
「お前ほんまに付き合う気ないんやな、どんな子や知らんけど」『まあそんなとこや、まだ高校生やしな』・・・・・
なんか本当に心底悩んでいる彼の姿を見て、何とかしてやらねばと考えていた私だったが、まあものの拍子というか弾みというのは恐ろしいもの。実に意外な妙案を私は思いついてしまったのだった。
「あのな・・・わしら二人は付き合ってる。ちゅう話しにしたらどないやろ?」『わしらがか(笑)』「せやっ。でな、君の事決して嫌いやないけど俺らにはおれらの・・・みたいな」『う~ん、ええかもなあ・・・・』「まるで吉本の劇のあらすじみたいなもんやな」『まあケースバイケースでそんな線も考えとこか・・・・』
とかなんとか言っているうちに彼女の家に着いてしまった。
中に入ると、彼女を入れて4人の女の子が。一緒にケーキを食べたり、カレーをご馳走になったり、歌を歌ったり、ゲームをしたり、時間はあっという間に過ぎて行き、そろそろおいとましようかという時間になってきた。
やばい、はっきりさせないと・・・・K平よりも私の方があせってきた。ひょっとして今日は楽しく過ごしたから彼の気が変ったのではないか?と期待もしていたのだが、チラっとK平をみると目で私に合図を送っているではないか。
私は心を決めた。
そして切り出した「今日は楽しかったよ。ありがとう。」・・・「でもひとつだけ伝えておきたい事があるねん。・・・俺ら物凄う仲ええやんか・・・分かってほしいねんな・・・実はな、俺らは二人付き合ってるねん」
言ってしまったあと、しまったと思った。彼女達の顔の表情がみるみる変って、というより目をクルクルさせて僕ら二人を交互に眺めはじめて。
しまったと思う心のあせりがまたまた私を狂わせた!
私はK平の肩を抱き彼を見つめた、すると彼はあろうことか目を閉じて私にもたれかかってきたのだ!私は反射的に彼をぎゅっと抱きしめ照れ隠しのようにキスをしてしまったのだった!その場がさささっと白けてしまったのは言うまでもない。
いくら思いつきのお芝居だったとは言え、いやこれは実に洒落にならん。彼女はとても傷ついただろう。これなら普通に彼女に断った方がよっぽとましだったはず。
帰りの車の中で軽はずみだった行動に反省しきり。「お前、あんなとこで気分出すなや」『あほ、お前こそ洒落にならんわっ』「お前さえもっとはっきりしてたらすんでたんやないかいっ」『俺らもう立ち直れんで』「当たり前じゃ」
と、お互い罪の擦り付け合いをしているところへ、物凄い勢いで雪が降ってきたではないか。大きな大きなボタン雪がみるみるうちに積もっていく。京都の北に向かっていたためよけいに雪はひどくなっていったとは言え、あっというまに20センチくらいの雪が積もってしまったのだ。
下宿まで普通ならあと15分というところでついに車がスリップし始めて立ち往生してしまった。何度も手押しで発進させようとしたもの、とうとうまともに走れぬじまい。
と、その立ち往生した目の前に、怪しげなホテルが・・・・・
「K平あそこに泊まらせてもらお、ここでこんな雪やねんから下宿あたりはもっとひどいで」と二人で車を押してそのホテルの駐車場に車を置いた。
もう時間も零時前。入り口の閉まっていたドアを何度も何度もガンガン叩き、ついに開けてもらうことに成功。
が、出てきたおばちゃんは『男さん二人どすかぁ・・・うちは同伴よってに・・・』と断ろうとするのを「おばちゃん助けてんか、こんな雪の中やし、朝まで寝さしてもらうだけやし」
おばちゃんは渋々二人を中に通してくれた、ほんまあんたら大丈夫かいな?!みたいに二人を上から下までジロジロ見ながら・・・・・そして言った『もうこんな時間やし風呂もボイラー止めてるし暖房も効いてないけどね』
通された部屋にはいかにも同伴用。布団がひとつしかひいてなく、そこに枕が仲良く二つ。しかもどうだこの冷え込み方は・・・・安物のホテルだけに部屋の中にも風がヒュ~と音を立てているのが聞こえる始末。
「しゃあないなあ」『ほんま洒落にならん一日やったなあ』「アホか、それはわしの言うセリフじゃ」『すまんすまん』
とにかく寒かったとは言え、大の男が小さいひとつの布団に身を寄せるようにして並んで入り、お互いを罵りあい(笑)こんな風景を誰が想像できるだろうか?
夜中にあまりの寒さに目が覚めた。布団が小さすぎたせいもあるが、K平と私は知らぬ間に抱き合って寝ていたのだった。一瞬ぎょっとしたものの「まあこんな日もあるんかなあ」と笑うしかなかった。
朝、ほとんど同時に目覚めてまた『気持ち悪う~』「こっちもじゃ」『二度とキスなんかすなよ』「アホかっ10万もうてもせんわ」
・・・・・どうしようもない想い出の一コマ・・・・・
写真はこの暑いのに真冬のものを貼りましたが、彼がその【雅俊】風に写っていますので、彼に敬意を表して選ばせていただきました(笑)
以学館の前にて、卒業前に撮ったものです。
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今日は、許可もらってないですが、わかめさんに 登場していただくことにします(笑)
前回、書かせていただいたTomさんもそうなんですが、このわかめさんも京都に進学してから知り合いになれた友人です。何よりも先ずは、4年間下宿が一緒だったのです。
よそよそしかったのは最初の一週間くらいで、すぐに打ち解ける事ができたように思います。以後はもう何でもありで、喧嘩もちょくちょくしたものです(笑)・・・・私の4年間の私生活はわかめさんが一番お詳しいのではないでしょうか(笑)
恐らく、あることないこと全て知っておられるかと・・・・故にちょっと恐ろしい存在でもあり。
わかめさんは、兎にも角にも博識で、車や電気製品を始めとする機械類の事や、芸能界の話題や、今で言うグルメの話題や、はたまたアーチェリーだのライフルだの軍事兵器だの・・・・笑
ある夜、彼が私の部屋に入って来て『おおいっ、今晩ええ映画があるから一緒にテレビ観んか?』って言うから「ええで、ほな観よか」ってことで・・・・・
西部劇だったんですけど【荒野の七人】だったかな?、確かになかなか面白かったのですが、わかめさんは博識が故にテレビを観ながら『お前この俳優知ってるやろ?』なんて聞いてくる。
「知らんなあ・・・」って答えると即座に『これがユル・ブリンナーじょ』と言う。また違う場面で『こいつの名前は知ってるやろな』と言うから「顔は知ってるけどなあ、名前は知らん」と答えると『何でやね、こいつはローバート・ボーンでないかぁ』と来る。「う~ん、マックイーンやとかブロンソンなら知ってるけどなあ・・・」と言いながら「えーっとこれは何ちゅう俳優やったけ?」と聞くと即座に『お前、これはジェームズ・コバーンやないか!ほんまお前は何にも知らん奴やねんなあ・・・・』とボロクソに言われる始末・・・・・★
翌日、たまたま彼と二人で下宿近辺を用事もないのにウロウロする事があって・・・・・ちょっとすれ違った女性に「あっ、こんちわ!」と声を掛けると『今の誰じょ?』とわかめさん。
「ああ、今のはそこの資生堂のミヨちゃんや」と答えると『ほおぅ』。・・・・・またすれ違った女性が『こんちわ!』と声を掛けてくれたので「こんちわ!」って・・・・わかめさんまた『今のは?』と聞く。「今のは○○寮に住んでる人や、ちょくちょく顔見るやん」と言うと『ほおぅ』。
またまた、すれ違いざまの女性と目が合ってニコニコしてたら『今のは?』と聞くから「今のは角の花屋の二人娘の妹のほうや」って・・・・・わかめさん、ぽや~んとしてるから言ってやったの「ほんまお前は何にも知らん奴やねんなあ」笑
わかめさんの反撃が怖いからこの辺にしておきます。
写真は友人と二人で夏休みにわかめさんの故郷の徳島を訪ねた時のものです。
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青春のうたに触発されてか、しばらくは頭の中が学生時代にとワープしっぱなしになってきております。
TOM君とは大学の2年間同じクラスで、クラスが変ってからもよく一緒に遊びに出かけたものです。特に毎日のように学校で出会っては、授業もそこそこに【茶しに】行ってました。学校のある衣笠近辺、雰囲気のいい北山通りあたりはほんとよく通ったものです。
私が学校をサボって下宿で寝てる時も『おるけぇ~、茶行こや』とよく誘ってくれました。
ある時は『茶行くから付いてこいや』って言うものだから彼の車の後を追いかけて行ったら、何と行き先は岐阜県にある養老の滝だったり、奈良の法隆寺だったり(笑)・・・・
彼のお陰で?私もあちこち行くことができたようなもんです。
そして、4年が終わり、大学の卒業式の当日。卒業できるかどうかギリギリの線だった私は、まともな就職活動もしないままの生活で、学校にもあまり顔を出さずにいて、皆の就職先を風の便りに聞くような状態になってしまっていたのです。そして、だんだんと自分が嫌になり、皆なに会うのも何か少しの抵抗もあって、卒業式には出席しないと決め込んで、一人下宿でふて寝をしていたのでした。
すると、昼過ぎだったかと。TOM君の声です『おるけぇ~』
卒業式に現れなかった私を心配して、彼は下宿を訪ねてくれたのでした。『お前、何しとんねんなぁ、アホやなあ・・・・』と、この私を叱りつけるように、卒業証書の入ったケースで私の肩をポンと叩くのでした。
あの時の気持ち、何か一言では、言い表せない。もう会えないかもしれないと思っていた彼が、何ヶ月ぶりかで顔を見せてくれたのでした。そして、そこには、いつものTOM君の笑顔がありました。
彼は今でも、一時間ばかり車を飛ばして、私に会いに来てくれます。『おるけぇ~』って(笑)
写真は4年の秋、琵琶湖バレイという所で彼と撮ったものです。後ろにはその琵琶湖が写っています。
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3月2日に、このブログを始めて、今日でようやく一ヶ月。
毎日毎日くだらない?話ばかりに付き合っていただいている皆様には、心より御礼申し上げます(笑)・・・・一周年ならともかく、たった一ヶ月でこんなことを書いているようじゃ先が思いやられますが・・・・。
とりわけブログ開設のきっかけになったのは、、私の【お知り合い】にもリンクしていただいています関東にお住まいの【きむぴーさん】の影響が大きかった訳なのですが。
今、本屋さんで売られている本で【青春のうた】というのがあります。よくあるパターンではありますが、創刊号は390円で次号からは990円みたいな感じのCD付きの本な訳ですが。その創刊号を手に入れて、昔懐かしの心境で何となく【青春のうた】というのを検索しているうちに、きむぴーさんのブログにたどり着いたということで。
しばらく掲示板でお話をするにつれ、いろいろと意気の合うところがありまして、今日に至ったという次第です。
きむぴーさんとは、勿論会ったこともお話したこともありませんが、常に気に掛けていただいており、改めて感謝申し上げたいと思います。
さて(笑)貼ってある写真は何だ?という話になるんですが・・・・
実は、私が毎日毎日、下手くそなギターと歌をこよなく愛していた?という事実を目撃されている方もあろうかと思いますが(笑)別に何を目指していたという訳でもない。ただただ歌うのが好きで、毎日あんな調子だった訳なのですが・・・。
たまたま下宿で歌などを歌いながら遊んでいた友人達と、はたと思いついて『よしっ!俺らもレコード出そうぜ!』等と、カメラを持ち出し、加茂川のほとりまで行って、ポーズをつけて、セルフタイマーで撮った一枚なんです。
ちゃんとレコードを出したあかつきにはと、曲のタイトルを入れる余白まで考えて・・・・
笑・・・・ちょっと気取って写してみたお気に入りの一枚です。
まさに【青春のうた】そのものの時代でした。
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このブログを読んでくださってる方の中にも、この車を運転したり、助手席に乗ったり、または他の車で追いかけたりしたご記憶のある方があろうかと思います(笑)
都大路を我が物顔で走りまくった【ベレG】です。写真は多分昭和48年頃の冬ではないかと思います(セーター着てるから)場所は植物園の駐車場でしょう。
年式は定かな記憶はないものの42年式。1600ccのSUツインキャブ、90馬力に満たない、ベタベタのグリーン。日本初のGTの名を冠して、四輪独立懸架、ラックピニオン、なあんてね(笑)・・・・能書きの割りに運転手がぬるい感じですが・・・・
アクセルを思いっきり踏み込むと、今時の車なら一気にヒューンって感じですが、このベレGは一瞬『・・・』みたいな間合いをおいてからボロロロ~ンって吹き上がるんです。ローギアで60kmも引っ張れるギア比の関係もあってか、信号の発進時にはよくエンストしたものです(笑)
ともあれ、語りつくせぬほどの想い出を残してくれたベレGなんですが、撮った写真はこの一枚だけなんです。もっと撮っておけばよかったと後悔しきり。でも逆にそうだからこそ余計に思いはつのるのかも。
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